専大日語?コラム
専大日語の教員による、月替わりのコラムです。
2024年5月:マニュアルと臨機応変
コロナが明けてから、飛行機に乗る機会が増え、その度に「日本の航空会社のサービスは親切かつ丁寧である」と感じる。特に外国の航空会社を利用したあとは、その感覚はより一層強くなり、外国航空会社との違いをいやでも認識させられる。
例えば、乗客が知りたいだろう情報を先取りして知らせてくれるという機内アナウンスもその一つである。飛行機に乗り込むと、まず出発時間がアナウンスされ、定刻通りに離陸できない場合はその理由が説明され、何番目に離陸できるかも伝えられる。食事の前には今から食事を配るというアナウンスがあり、場合によってはどういうメニューがあるかまで説明される。また飛行中には今の飛行高度、免税品販売の開始や終了時間のお知らせ、気流の悪いところを通過しそうな場合の事前案内がある。さらに、目的地に近づくと、正確な到着時刻だけでなく、到着地の気候?気温が案内され、最後には何番のスポットに着くかも教えてくれる。至れり尽くせりである。
乗客にとってはこれらの情報は(もちろん人にもよるが)必要かといえば必要であるが、なくても困るものではない。いずれもその時になればわかるものである。もちろん乗客にとって丁寧で、親切なサービスは非常にありがたいことだが、中にはアナウンスに邪魔されずに機内でゆっくり仮眠したい乗客もいるかもしれない。現に外国の航空を利用する場合、私の限られた経験においてこのような細かいアナウンスはほとんどない。また日本に戻ってくると、機内アナウンスだけでなく、電車に乗っていても車内放送が多く、丁寧にいろいろな情報を伝えてくれることに改めて気づく。
毎日の生活ではマニュアルではないものの、パターン化した言葉が多いのも日本の特徴である。朝起きると「おはよう」と挨拶し、昼間は「こんにちは」、そして夜は「こんばんは」とあいさつする。これは中国でも普通に交わされている日常会話である。しかし、出かけるときの「行ってきます」とそれに対する「行っていらっしゃい」、帰ったときは「ただいま」、それに対する「お帰りなさい」、食事の前には「いただきます」、食事後には「ご馳走様でした」。日本人なら誰もが当たり前のように言う表現であるが、そういう決まり文句を言う習慣は中国にはない。人によっては「先に食べるよ」という人もいれば、黙って食べ始める人もいる。食後は「おいしかった」という人もいるし、「お腹いっぱいだ」という人もおり、万人共通の決まり文句はない。ましてや日本人のように一人で食べるときにもこのような言葉を発することはまずないだろう。なぜなら中国人の挨拶表現は人さまざまで、その場に応じて応用できるからである。
そういう意味で、日本人はマニュアル通りに言葉を発したり、行動したりする場面が、日常生活だけでなく、様々な場面に見られるのではないだろうか。それに対して、中国人はそういうマニュアルみたいなものはあまり重要視しない。よく言えば「臨機応変」である。
例えば、料理を作るときでも、日本では「塩1さじ」「醤油1さじ」のように、きちんとした分量を示すが、昔中国で買った中国の料理本は大体塩少々、醤油少々といった具合である。さすがに最近の中国料理のレシピではきちっとした分量を示すようになっているものもあるが、実際に家庭で料理を作るときは大体目分量である。例えば、私の妻が作る水餃子はおいしいが、小麦粉と水の分量、またそれに合わせてどのぐらいの具を用意するのか等、すべては経験と感覚による目分量である。でもどういうわけか、最後はいつも何とか皮と具がぴったり合って、おいしい餃子が出来上がる。たまに日本の友人がおいしいから自分も作ってみたいと、作り方を教えてほしいと言うが、きちんとしたレシピがないから、なかなかうまくコツが伝わらない。でも日本人にとって慣れない餃子づくりをするにはマニュアルがなければ、なかなかチャレンジできない。やはりマニュアルが大事である。
日本で生活していると、マニュアルの大切さを日々感じるが、中でも日本人がいかにマニュアルを忠実に守っているかを認識させられた経験がある。大学院生時代のことである。
ある日、私が住んでいたアパートの大家さんのお父さんが亡くなったのをアパートの玄関に貼ってある訃報で知った。お世話になっている大家さんだから、なにかお悔みのことばを申し上げに行かなければならないと思ったが、そういうことを経験したことがないので、何をどう言えばいいか分からなかった。当時はまだインターネットもない時代なので、本屋へ行って冠婚葬祭の本を立ち読みし、弔問客と遺族とのやり取りを丸暗記して大家さんの家を訪ねた。こちらがマニュアル通りに、「この度は大変ご愁傷様でございます」とお悔やみの言葉を言うと、遺族の方も「ご丁寧なお悔やみ、ありがとうございます。ぜひ顔を見てお別れしてやってください」のように、マニュアルと全く同じような言葉を返してくれた。「お会いするのが辛すぎますので」とやんわり断った。これもマニュアルを丸暗記しての返答だった。マニュアルのおかげで、無事に弔問をおえることができた。
今となってはさすがに当時のやり取りのセリフをすべては覚えていないが、遺族とのやり取りはまるで、舞台のセリフのように完ぺきだったことは記憶の中で鮮明である。こちらがマニュアルを丸暗記して行ったのだから当然のことだが、遺族の方がマニュアルを見ていないのに、まるで私と同じマニュアルをみて芝居をしたかのような「協力ぶり」だった。まさかこんなことがあるのかと、本当に私にとっては不思議な体験であった。日本でマニュアルの有用性を身をもって体験した出来事であった。
翻って、数年後、父が亡くなった時に、喪主としてどのようにふるまえばよいのか分からないので、中国の書店で冠婚葬祭本を探そうとしたが、そんなものはなかった。結局私を含めて兄弟や親族は自分たちのそれまでの経験で対応するしかなかった。その時ほど中国にもこんな本があればと思ったことがない。しかし、よく考えてみれば、実際にそういう本があるにしても、おそらく、日本人のようにお互いに忠実にマニュアル通り実行するかどうかは保証がない。むしろ臨機応変に対処するというのが中国人の性に合っているかもしれない。
ことほどさように、日本ではマニュアルに従って行動すれば、すべてうまく行き、誰もが安心して生活できるのである。その意味でルーティン化した日常生活ではあまり頭を使わなくてよく、非常に楽である。(いまの若者はあまり海外へ留学に行きたがらないと聞くが、ひょっとしてこれが一因かもしれない。)しかし、あまりに杓子定規なやり方だと、わくわく感がないので、物足りないと思う人もいるはずである。マニュアル通りがよいか、臨機応変がよいのかは人それぞれであろうが、やはり郷に入っては郷に従えという考え方も大事なのではないだろうか。